歴史探訪 1.吉備真備公園 岡山県倉敷市真備町 と 中国西安市
歴史探訪 1.吉備真備公園 岡山県倉敷市真備町 と 中国西安市
はじめに
今回は、「歴史探訪」というカテゴリーを新たに追加しまして、その一回目として吉備真備公園を取り上げます。歴史探訪とありますが、内容は深くありません。今年に入り、かつての吉備と呼ばれていた地域によく出かけておりまして、その土地々々でたくさんの人にお世話になったことと、昨年夏の豪雨災害により岡山県倉敷市真備町が災害に見舞われたことから、その復興を応援したいという気持ちもあり、西安市の吉備真備公園まで行きましたので、その様子をレポートします。
吉備真備について
吉備真備について簡単に紹介します。右大臣吉備真備は7世紀から8世紀ごろの人です。生まれは、昨年大きな災害のあった岡山県倉敷市真備町です。当時の日本は辺境の国、文明の遅れた国でした・・・、というと、どこから見て辺境なのか、どこと比較して文明が遅れているのかということになりますが、それは、もちろん、隋、唐といった現在の中国になります。小野妹子から始まる遣隋使、その後、隋が滅び唐が建国されて遣唐使が始まります。その遣唐使として真備は唐の都、長安(現在の西安)に学びに行きます。同世代の人物として阿倍仲麻呂がいますが、彼の場合は日本に戻ることが叶いませんでした。真備は唐で学んだことを日本に持ち帰り、その後の日本の発展に大きく貢献しています。その功績が認められ、学者で初めて右大臣にまで昇進します。当時の日本では漢字の読みが呉音であったものを漢音に改めます。そして、現在に通じるカタカナの原型を作ったとも言われています。
吉備真備神社
西安市の備真備公園は、市の中心に位置し、永寧門と文昌門の間にある城壁公園内にあります。
西安市には城壁があります。たくさんの観光客が城壁の上を歩いています。
公園入口付近の様子
昨今の中国の発展ぶりからすると、どうも不釣り合いな場所にありますが、そもそも、公園の整備事業を始めたのが1986年ということですから、当時の中国、西安市の経済状況からすると、その当時の日本のプレゼンスが非常に大きかったのだと思います。
実は2017年にも一度西安を訪れているのですが、その当時はこんなところに吉備真備公園と呼ばれている場所があるということを知りませんでした。
石碑の周りは低い柵で囲まれていて石碑の内容を見ることができません。
ちなみに西安で暮らしている中国人ですら、吉備真備のことを9割9分知りません。日本人ですら何割の人が彼のことを知っていますか?
遣隋使、遣唐使と呼ばれる当時の留学生は、かなりの確率で船が沈没するといわれている中、命懸けで未開の地であった日本から大陸に渡り、隋、唐で学んだものを日本に持ち帰り、その後の日本の発展に尽力しました。その中でも吉備真備は多分野に精通した知識と能力の持ち主だったようです。
おわりに
西安市にある真備公園は、街の喧騒から少し離れた静かな場所で、たくさんの地元民が散歩や休憩に訪れる憩いの場になっていました。今回の旅は5月12日から26日までの2週間で、本来はバイクで西安市近郊まで尋ねる予定でしたが、車検の更新手続きなどに時間がかかってしまい、高鉄(高速列車)で成都から向かうことになりました。帰国後もやることがたくさんあり、なかなかブログの更新ができておりませんでしたが、昨年夏の豪雨災害による被害からの復興を願いつつ、記事を纏めさせて頂きました。真備公のご加護がありますように。