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日本旅行 4.新潟県長岡市 河合継之助記念館 牧野家資料館

日本旅行 4.新潟県長岡市 河合継之助記念館 牧野家資料館

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河合継之助記念館の入口様子。これより先、館内の展示品は写真撮影できません。

2018年4月9日から4月18日までの期間、お次は「東日本最前線」と銘打ち、東日本各地の桜と史跡を見学する旅をして参りました。その中から今回は、新潟県長岡市にある河合継之助記念館と牧野家資料館をご紹介します。

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河合継之助記念館は長岡市内中心にありますが駐車場も完備されています。

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継之助に関する資料がたくさんある記念館ですが見学料は200円と安い。

司馬遼太郎の著書「峠」の主人公である河合継之助は長岡藩士でした。大政奉還ののち、新政府軍と幕府軍との戦争が起こり、新式の武器を装備している新政府軍は圧倒的有利に戦局を進め日本列島を北上していきます。そして、現在の新潟県長岡市で河合継之助率いる長岡藩と衝突します。当時日本に3台しかないといわれたガトリング砲の一つを所有していた長岡藩でしたが、その奮闘もむなしく、圧倒的な戦力差のなか新政府軍に敗れます。そして河合継之助もこの地で落命しました。はじめから、負けることがわかっているなかでの戦いでした。しかし、戦うという選択しかなかったことも事実です。過去に起こった出来事は時間が経てば経つほどに公平に評価されるようになります。時間の経過とともに利害関係が無くなったり、薄れていくからです。利害関係がある間は、その時の力関係により強いほうが有利に運ぶように評価が形成されるものです。その当時の日本人が長岡藩を表向き評価できなくても、時間の経過とともに、この当時の長岡藩の行動を振り返ったとき、「あっぱれ継之助、あっぱれ長岡藩、それでこそ武士(もののふ)」という賛辞を贈れるようになるわけです。戊辰当時は新政府軍が錦の御旗をかかげているわけですから、長岡藩は逆賊という立場になってしまいますが、それとは逆に少し時代を遡った江戸時代末期の徳川幕府の立場(政権側)にとっては、薩摩藩長州藩は御公儀を揺るがす今でいうテロ国家(藩)です。それがため、1858年に大老井伊直弼により、いわゆる安政の大獄吉田松陰橋本左内などが処刑されることになります。勝てば(強いほうが)官軍になり、負ければ(弱いほうが)賊徒(テロリスト)という扱いを受ける、このルールは古今東西変わりません。そもそも、お互いに、それぞれの信義があるわけです。ですから、最後は勝とうが負けようが、その結果ではなく、最後まで信義を貫いたかどうかが、武士(もののふ)としての最も重要な評価基準になるのではないかと思います。

というようなことを考えながら、夢中になって1時間半ほど河合継之助記念館を見学しておりました。そしたら、継之助の主君である牧野家の資料館があるとの情報を得て、さっそく、会場のある「さいわいプラザ」に行きました。こちらの資料館は展示品の写真撮影も許可されており、牧野家、長岡藩にまつわる品々が展示されておりました。殿様の記念館ですから、良い物が展示されています。しかも無料で開放されていました。

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牧野家資料館の様子。

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見学無料ですが、良い物がたくさん展示されていました。

長岡藩を語るとき、河合継之助なしでは語れませんが、この河合継之助という下級武士を家老にまで取り立てた当時の牧野家の当主も凄いなと思います。継之助の思想は当時には珍しい民主主義です、民のために国があるという考えかたは、封建制を真っ向から否定することですから、それを受け入れる長岡藩の懐の深さに感銘を受けた新潟、長岡の旅でした。

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もののふ”とは、その答えは長岡にあり。